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Interview

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小溝裕一先生(グローバルイニシアティブ機構東アジア拠点長)
に聞く

小溝裕一先生は京都大学工学部を卒業後、住友金属工業(株)総合技術研究所での約30年の研究者生活を経て、2004年に大阪大学接合科学研究所の教授に就き、溶接時に生じる金属現象のその場観察を行う方法を世界で初めて開発されました。2009年に文部科学大臣表彰、2017年に紫綬褒章を受章するなど、溶接技術の発展に大きく貢献してこられました。教え子でもある当研究所 山本啓助教がこれまでの研究生活や今の溶接界についての思いをうかがいました。

溶接研究に携わるきっかけを教えて下さい。

 私の学生時代は1960年代終わりの大学紛争の頃で、大学のロックアウトもあり勉強をしたくても、なかなか思うようにできない時代でした。京都大学工学部の金属加工学科で学びましたが、友人5人で同じ研究室に入ろうということになりました。全員が入れるところ、つまり人気のなかった溶接研究室を選びました。その後のことを考えると、これもひとつの縁だったと思います。水野政夫先生が最初の恩師です。

卒業後、住友金属工業ではどのような研究をされましたか。

 生まれも育ちも西宮市で、関西の企業を選び住友金属工業に入り研究所に配属となりました。約30年間在籍しましたが、途中の2年間、大阪本社の技術企画部にいた以外は、ずっと研究所で溶接の研究を行っていました。研究所時代は厚板や鋼管が担当で、溶接部の品質改善を中心に取り組みました。シベリアのパイプラインで現地工事経験もしましたし、クラッド鋼の固相接合の開発では、製紙プラントや大阪花博でのリニアモーターカー、IH炊飯器など様々なところに使われました。新人の頃は当時の所長の方針で「朝8時30分から夕方5時までは机に座ったらだめだ。現場に行って手を動かせ」という指導でした。当時マドロスパイプで煙草を吸っていて、新人時代の昼休みにパイプの掃除をしていたら、生意気だと怒られましたが、自由な雰囲気が研究所内にありました。当時取り組んだ研究例では、半導体製造装置のクリーンルームをつくる時の材料は、材料そのものから不純物が生じてしまうとだめで、硫黄分の少ない極低サルファの素材を会社が開発しましたが、溶接をしてもなかなか溶けませんでした。その時、提携をしていたガスメーカーが溶接用のアルゴンを作っていて、そのアルゴンを作るときに「粗アルゴン」という精製途中の少量の酸素が入っているガスを使うと溶込みが深くなりました。今でいう一種の「Aティグ」かと思いますが、クリーンルームのパイプ溶接には有効でした。それからシームレス鋼管ではマンネスマン製管法といって、丸状のビレットを高温に加熱し、穴を開ける原理でパイプを製造する時に使用する工具(プラグ)は、素材と高面圧で接触しても、途中で焼付かないことが重要です。これはFSWのツールに求められる性能と同じです。

その後、接合研に移るきっかけはどのようなものでしたか。

 企業の研究者時代に感じていたことは、要望された課題に対して1年後に100%で応えるよりは、80%の内容でも良いので、1ヵ月後に結果を出したほうが喜ばれるということです。ただ80%の内容を提出すると、また別の案件が入ってくる。結局残った20%の部分が自分でも解決できないまま積み重なっていました。ただ当時の住金の所長が論文執筆を薦めてくれたこともあり、博士論文をまとめることになりました。実験をしてただ課題をクリアしたというだけでは作業報告は書けても論文にはなりません。原理原則に戻り、仮説を立てて実験と検証を重ねることで論文になります。大阪大学の菊田米男先生、中尾嘉邦先生、松田福久先生、稔野宗次先生に審査をして頂き1982年(昭和57年)に「低炭素低合金鋼溶接金属の組織と靭性」に関する研究で博士号を取得しました。そのすぐ後にイギリスのケンブリッジ大学に留学し、日本との研究発表のスタイルが大きく違うのにも刺激を受けました。はじめて溶接学会で発表をした時は、目の前に座っていた阪大の先生に「しっかりとした発表だが、しかし学生時代の君の顔を覚えていないなあ」と言われました。溶接の研究者は当然のように阪大の出身だと思われていたんだとわかり「すごい世界だ」と思いましたが、こうしたことも後々につながっていったのだと思います。そして徐々にもっと研究を深めてきたいという思いがでてきました。当時、所長であった牛尾誠夫先生のご尽力で2004年に新設された「信頼性評価・予測システム学分野」の公募に応募し、教授として就くことになりました。自分で研究テーマを考える段階で、選択したのが「溶接部のその場観察」です。SPring-8(スプリング8)の放射光を用いる発想があり、レーザ顕微鏡の予算もついていたことから研究を始めました。スプリング8は住金時代にも触れていて、京都の岡崎に泉屋博古館という住友家の収蔵する美術館があるんです。「三角縁神獣鏡」という銅鏡をスプリング8で分析をするというのを行っていました。当時まだスプリング8を溶接の解析に用いる研究はありませんでした。アメリカでは放射光をつかった論文がでていましたが、日本のスプリング8の方が性能も良かったこともあり、研究に取り組みました。このような直接観察の方向は、接合研が主催する「Visual-JW」国際会議として今も続いています。

研究以外の活動はどのようなものがありましたか。

 溶接学会や金属学会、鉄鋼協会などで様々な活動を行いました。日本に100以上ある工学系の学会をまとめている日本工学会という組織があって、そこでフェローとしての活動も行っています。国際共同研究もテネシー大学やバーミンガム大学の先生と阪大で一緒に行いました。その2名は今年7月東京でのIIW年次大会で招待講演として来られるそうです。現在は両名とも金属アディティブマニュファクチャリングの研究を行っています。その場観察の研究で書いた論文が、溶接学会や鉄鋼協会、金属学会などで論文賞をいただき、その後の文部科学大臣賞や紫綬褒章につながりました。また対外的な活動では、当時の国の科学技術基本計画で溶接の位置を高めるための活動に力を注ぎました。いろいろな学協会がある中で、これからも存在感を示していかなくてはいけません。

後進に向けてのアドバイスをいただけますか

 現在接合研では協働研究所や共同研究部門で企業との産学連携が進んでいますが、まだ本当の意味での人材交流にはなっていないと思います。特に工学の場合イノベーションを起こすというのがミッション。そうだとしたら大学の先生も、学内でのキャリアが一番だという考えはいったん置いて、もっと企業と大学がシャッフルをしていかないと本当の意味での産学連携はできません。社会のニーズがわかる大学の先生や、研究マインドのある企業人が日本の社会にはもっと必要です。また若い先生や研究者に対して言えることがあるとすれば、溶接・接合はものすごく広範な知識が必要ということです。学問としても、金属材料学、力学、アーク物理、反応速度論、制御理論も必要となるし、工学部でやっていること全部が絡んでくる多様性が要求されます。異なる立場の様々な考えを持つ人と議論すると、互いに触発されて、新しい発想や切り口が広がることもあります。現在、大阪大学で国際連携を図るグローバルイニシアティブ機構で、東アジア地域の拠点長を務めていますが、世界から接合研に人が集まり自由にディスカッションができる環境を整備したいと思います。若い人には、シンプルに自分が面白いと思う研究を行ってほしいです。自分が面白いと感じれば、研究もきついとは思いません。テーマが時代にあってくるかどうかは時の運もあります。毎日、朝起きた時に「今日はどんなデータがでてくるんだろう」とわくわく思えるようであればそれが一番の幸せ。周りを気にせずに一生懸命に頑張ってください。